第9話 里山に残された悲しい出来事に教えられること

生きた証

棲眞寺(広島県三原市)のハスの花

里の麓を一望できる山の中腹にひっそりと、お墓がいくつか並んでいます。

このあたりは仏教の浄土真宗が盛んな土地で、信者は安芸門徒と呼ばれています。お盆にはご先祖を迎えるために、お墓の目印となるようにカラフルな盆灯籠が立ちます。
ご先祖に安心いただき、今あることの感謝を表します。
夜の盆灯籠の灯りは綺麗で幻想的です。

浄土真宗の盆灯篭

お墓の中に、先がピラミッドのようにどがったものがあります。戦死した兵士のお墓です。太平洋戦争という時代の流れに呑み込まれ、家族を守るため、国を守るため、「大義名分」に従い、この里山から出征し命を捧げたひとりの青年のお墓があります。この里山で生まれ、その時代を生きた証がここに残っています。

墓石に刻まれた文字は長い歳月の流れにつれて次第に崩れはじめています。人知れずそのまま風化してはいけないという思いから読み辛くなった文章を書き出しました。


墓石に刻まれた文章


その内容は驚くものでした。

『憶君ハ昭和十九年初頭西部ニュウギニア島マノクアリ東方約四十五海里ノ孤島ヌムホア島ニ上陸シ飛行場警備ノ重任ヲ帯ビ昭和十九年初旬数十隻ノ敵大艦隊ノ攻撃ヲ受ケ遂ニ敵ノ上陸トナリ敵陣地奪回ノ夜襲ニ◯◯中隊長自ラ陣頭ニ立チ軍刀ヲ杖ニ壮絶ナル戦死ヲ遂グ』

享年26歳、遺骨は戦友が2年間持ち続けたのち故郷の遺族のもとへ帰ってきました。アメリカ軍への夜襲で重傷を負い、助からないと判断し自決したと聞きました。
この大戦で多くの日本人、そして、アメリカ人が犠牲になりました。
今ある私たちの平和は、この世界大戦の時代を生き抜いた人達の命の証に繋がっているのです。

戦争を知らない世代

話は変わりますが、私の父は中国戦線に出兵し、戦わずして終戦を迎え帰国しました。妻の父は、南方で船が沈没し、ソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留で生き延び、終戦で日本に帰ってきました。

広島市平和公園 原爆ドーム 2006年撮影

私は、「戦争を知らない子供」です。平和な日本で温々と育ちました。戦争は頭の中で知識としてありますが、実際のところは、心で感じとることは難しいようです。

日本には数千年を経て形造られた独自の優れた文化や国民性がありました。しかし、戦後アメリカ軍による自由と平等の国民性の指導を受け、日本が培ってきた心の文化を合わせこむことを忘れたまま平和な日本国が形造られていきました。その結果、今の実体は、相手を思いやれない、言いたい放題、自己の権利主張ばかり…。大切な何かを忘れているのではないかと私は思っています。

戦争体験を父に聞いてみましたが、このことについては口を閉ざしたままでした。生きるための悲惨さがどれほどものであったかが、想像すらつきません。
日本人の戦没者数は310万人です。


かけがえのない命

今、命の重さが軽んじられています。
自らの命を奪う過労死、いじめによる自殺、孤独死、他人の命をゲーム感覚奪う殺人、無差別殺人など…。
生きようとした、しかし死の選択を強制された時代の人たちが今の日本を見て何と思うでしょうか?

いったい、何があったのでしょうか?

命の大切さは、時代が変わっても変わりません。
この世で一番大切なものは命と教わりました。


あやめの花


生きること

生きることとは、命を繋いでいくことだと信じています。加えて、人は多くの人々とかかわりの中で、その心を次の世代に繋いでいきます。
人は目に見えないものを信じ、考え、理解する能力があります。それは、将来であり、希望であり、人の社会が発展してきた要因だと考えます。そして、決して1人で生きているのではないと思います。

心のルーツは故郷と縁ある人たち

いつ来ても故郷の自然は幼少のころそのままに残っています。

春になり、花が咲き木々が茂り、初夏になると実がなりはじめます。
動物が実を食べに山から下りてきます。
秋には植物は一斉に実を落とし次の種を準備します。
冬には、動物は山に帰り、木々は葉を落として春を待ちます。
この自然の命の営みは、暦に寸分違うことなく1年の周期で繰り返されています。

くりの花
里山に咲く白い栗の木の花

何があっても、ここに帰るならば、懐かしい思い出の詰まった、代々から繋がってきた命と心が宿る変わらない故郷(自然)があります。

生きていると人の世の中で多くの、良きこと、悪しきことを経験します。自然の猛威にさらされることもあります。今、新型コロナ禍で生活が変わろうとしています。でも、何があってもそれに適用して生き抜かなければならないと思うのです。
もしも、心が折れるなら変わることのない何かの頼れるものを求めます。そんな心を癒やしてくれる拠り所が故郷や心が繋がる縁ある人たちかもしれません。


 以上